Over time


 とある夜の、月鏡の城の片隅。
 きょろきょろと、周囲を見回したアリスが厨房に入り込む姿を認めた九龍は、足早にその背を追った。アリスのことだから、夕食後なのにおなかが空いて、食料棚を漁りに来たのだろうか、と。
 そんな想像をしながら、厨房を覗き見ると。アリスは厨房の片隅、冷蔵室として使われている氷室前に陣取っていて。
「アーリスぅ?ンな時間に、厨房でナニやってん?」
「ぶっ!」
 九龍にはアリスを脅かすつもりはなく、単純に何をやっているのか気になって声をかけただけなのだが、アリスの方は余程の衝撃だったのか、派手に咳き込んで胸元を押さえている。
「──アリス!?」
 九龍は駆け寄ると、背中を丸めて咳き込んでいるアリスの背を軽く叩いた。
「ごほっ、けほ…っ、九・龍……?」
 腰をかがめて、涙目で、口元を拭って。自分を見上げるアリスの背を撫で下ろして、九龍は謝罪する。
「悪い悪い、驚かすつもりはなかったんよ。ンな時間に、一体何、」
 言いながらアリスの姿を改めると、その手には空になった牛乳瓶。周囲には飲み損ねて噴き出された、白い小さな、複数の水溜り。
「してんのか、て……思って……」
「……………」
 ようやく呼吸が整ったアリスは姿勢を正したが、悪戯が見つかったあとのような、後味が悪そうな顔をして、九龍から視線を反らしている。
 何となく、思うところがありながら。
「ちょい…裏庭まで、散歩でもせぇへん?今日あたり流星群が見られるて、セラとラーが言ぅとったし」
 汚れた箇所を手早く拭きながら九龍がアリスにそう言うと、
「流星群!?見たい!」
 アリスの顔に、ようやくの笑顔が灯った。

 外の様子は残念ながら雲が多く、流星群を見るのは難しそうな空模様だったが、頬を撫でる風は心地良く、夜の散歩を楽しむのも悪くない雰囲気だ。
「そないに牛乳好きなら、毎食付けてくれって料理長に頼めばええやん」
 裏庭の、花壇を囲う大理石の一角。幅広の其処に並んで腰を下ろして、九龍がアリスに話をすると。
「別に、牛乳が飲みたいってワケじゃないよ。ただ………」
 仏頂面をしながらも、アリスは言葉を殺すことなく返事を寄越す。
「早く……大きくなりたいって、思って………。それで牛乳に走るなんて安易だけど、他に方法も思いつかないし………」
「……………」

 何故、成長を、───急ぐのか。
 皆まで聞かずとも、九龍には察しがついた。

 このところ、風哭の背が目に見えて伸び始めたこと。外見が、大人びて来たこと。

 それは実は『伸びた』のではなく、『もとに戻りつつある』だけだと分かっていても、九龍と、アリスと、比較的身長差が少なかった風哭の、実年齢はともかく、それまでの外見年齢が自分と大差なかったことも手伝って、アリスは焦りを感じているのだろう。
 そういう年頃の、少年らしい、焦燥。
 それについては九龍も、思うところは多々ある。だが、その身体に流れる『血』は、もう、アリスと同じ時の早さを、九龍に刻んではくれない。お互い、最終的にどの程度で落ち着くかは未知数だとしても、アリスの外見の方が、九龍より先に、確実に、大人へと変貌する。
 己の思考を心に沈めて、九龍は言葉を紡ぐ。
「いつどんだけ背が伸びるかなんて、個人差があるやん。食べ物に反応して、急に伸びるわけもなし」
「…そりゃ、そうだけど………」
 きゅっ、と口を窄めるアリスに可愛らしさを感じながら、九龍はその肩を軽く叩く。
「風哭、待っててくれるて言うたんやろ?」
「ん……」
 個人名をズバリと出すと、微妙に眉根を寄せながらも、アリスが小さく頷いた。

 不毛な競争心だと、分かっていても。
 すべてを、待ってはもらえなくても。すべてを、追いかけることはできなくても。
 何もかもが、敵わないままなのは、嫌だから。哀しいから。追いかけていたいから。

 アリスの子供っぽい部分は、ヴァンパイアには愛らしく映っているようだが、当人にはそれも悩みの種なのだろう。過剰に急いで大人になどならない方が、親近感も親密度もより深まる……とは思うものの、幼く見られることを嫌うアリスの心理も、九龍は理解できるので。
「影哭が、確か……風哭は、もともとは自分と同じくらいや言うとったから、それを目標にすりゃええやん。狼哭と比べれば、まだマシやろ?」
 その、『同じくらい』が示すものが、外見年齢か身長かはともかくとして。今は、アリスの思考を前向きに持って行ければ良いとばかりに、九龍は目標を掲げる。
「そうだなぁ。狼哭なんて横に並ぶと、真上を見上げるくらいじゃないと、顔、見えないもんな。九龍、大変だろ?」
 何だかんだで、縁あって狼哭と居ることの多い九龍の苦労を思ったのか、肩を竦めてアリスが笑う。 
「そ。あいつと立ち話すると、首と肩凝って敵わんわ。それを思えばまだ楽やろ?」
「……だな」
 そう結論づけて締めくくるのも無茶苦茶な話だが、すんなり結論の出る悩みでもなく、現状、時の経過が出す答えを待つしか無いのだ。それが分かっているからか、アリスもそれ以上、愚痴めいたことを言葉にはしなかった。
「話して、スッキリした。サンキュ、九龍」
「別にええよ、これっくらい」
 二人静かな笑みを交わし、
「んじゃ、そろそろ」
 と、アリスが腰を浮かしかけた、その時。
「部屋に戻……あー!」
「な、何やねん」
 突然のアリスの大声に九龍が背を反らすと、
「今、星流れたー!願いごと言うチャンスだったのにー!」
 夜空を見上げて、子供じみた仕草でじたじたと悔しがるアリスはどう見ても年より幼く、その様子や所作からは、先の騒動を収束させた鏡皇の威厳は伺えず、知らなければ同一人物とはとても思えないだろう。
 まだまだこちらが『地』かと思いながら、

(風哭が……後ろから背ぇ囲うと、仔犬を餌付け抱っこしとるみたいで可愛いとか言ぅてたんは………言わんどこ)

 雲の途切れた星空を見上げて歩くアリスの後背を、九龍は追いかける。
 風哭の例えではないが、何か、ぶんぶん動くしっぽが見えるような気がすると、ほんの少し、頬を緩めて。

─終幕─